俳優設計募集中に思う事

俳優設計という企画の参加募集がはじまっている。
有り難いことに既に参加希望をいただいている。
締め切りまでまだ一ヶ月近くあるというのにありがたい事だ。
最悪応募が無いということも想定していたが、応募があったということはつまり、開催されるということだ。(定員10名程度なので、気になる方は早めにご一報ください)
知り合いの作家や演出の方にも「なにやらやるらしいね」と興味を持っていただいていて、見学に行っていいかと確認される事もある。非常にありがたい。
どうせなら1コマやってみませんかと声掛けしたくなる。

というのは俳優設計は私(橋本)の演出論を押し付けるわけではなく、様々な資料や実践をもとに「俳優とは何か」をまず考えてやってみる為の試みだから、私である必要はない。
一応の舵取りとして私がいるに過ぎない。演出というよりは、ナビゲーターといったところか。
(勿論舵取りするのである程度方向づけはする。何をしに来たかわからなくなるの避けたいので)
だもんで
「俳優設計であめんぼあかないを繰り返して滑舌がよくなりました!」
「俳優設計を受けたら客演依頼が殺到しました!」
「俳優設計を受けたらテレビでスターになりました!」
「俳優設計を受けたらポジティブ思考になり、毎日がハッピーです!」
というようなものではない。
(そもそも私自身「あめんぼあかいなあいうえお」の続きを知らない)
自分が俳優であると自覚するに足りうる何かを見つけてやってみる場所である。
俳優養成所やワークショップとは違う趣になっていくだろう。
なので所謂発声練習も恐らくしない。
(独自の発声方法を編み出していくかもしれないけれど)

特殊な所では月に一度ゲストをお呼びする。12月と1月のゲストは既に決定している11月中旬には発表できるはずだ。どちらも小劇場関係者ではない。
ただどちらも「観る」という行為に関係する方々であり、スペシャリストだ。
そんな方々の助言も含めてなるべく多角的に俳優を捉えていき、新しい「上手い」が開発できれば御の字である。

何故俳優設計をやろうと思ったかは企画書に書かれているので、必要な方は資料請求をしていただきたいのだが、少しここでも述べておく。

私が客席から観ていて「?」となる俳優は確かに存在する。
ベテラン、中堅、若手に限らず散見される。
それは台詞を言っているだけ、演出がつけたプランをなぞっているだけ、そしてその思惑が透け透け見え見え下心丸出しな俳優の演技だ。
こういう芝居を見ると「なぜ私は人のカラオケボックスに入ってしまったのか」と自分を呪う事になる。
そして私の脳裏に「カラオケ演劇」「カラオケ演出」「カラオケ俳優」という罵詈雑言がよぎる。
カラオケで歌詞をなぞりながら歌うように、台詞や演出プランをなぞって芝居をしている様に見えるからそう名付けた。

皆様も一度ぐらいはカラオケボックスに行ったことがあると思う。
カラオケはプロの歌手の歌を模して歌い、特定の仲間と楽しみながらも自分のなりきり欲求をも発散させる場である。
そのボックスの一部屋だけで通じるルールとコミュニケーションが曲を重ねるごとに出来あがっていく。
仲間内だけで楽しむものであり他人に見せるものではないので、盛り上がる。
なので間違って他人のボックスに入ったときの「すんません!」感は凄い。
(店員さんが飲み物等を持ってきたときに自分が歌っていたりすると、これはこれで「すんません!」感がにじみ出る。)
他人のボックスに入ってはいけないという暗黙のルール。
それは見せるほどでもない「私」が蔓延しているから、入らない方が得策なのである。
(見せるべき「私」なら別なんだけど)

私はカラオケ演劇がはじまるとカラオケボックスのとき同様「すんません!」と出て行きたくなるが、演劇の場合はなかなかそうはいかない。なぜなら出ていく方が迷惑をかける事になるからだ。
「あと何分だ」「何故私はここにいるのか」「私とは何か」「宇宙の真理とは」と考え込んでしまう時間のはじまりである。

お金を払って人のカラオケを聴く、さらには拍手を強要される事もある。二回も、三回も。
最悪である。
しかもカラオケというのは歌っている側は非常に気持ち良いものだ。
私もカラオケが好きなのでその気持ちは十二分にわかる。気持ち良いよね。
しかし、劇場はカラオケボックスでは無い。そう願いたい。
いや、もしかすると劇場は既にカラオケボックスと化しているのかもしれない。
さらに言えばギリシャ悲劇の時代から、演劇はカラオケだったのかもしれない。
私達は産まれた瞬間からカラオケボックスに閉じ込められているのかもしれない。

話が逸れた。
ともかくそんなカラオケ演劇に一人でもプロというか、ほぅ・・・・と唸りたくなる俳優が毅然と、悠然と舞台に立っていれば、たとえ物語が私好みでなくても、結構満足できる。

では私を含めて何故演出はカラオケ化している事に気がつくことが出来ないのか。
そのあたりも俳優設計を通して考えていきたい課題である。
いまのところの推測であるがは、一定数、意図せず役をものに出来る(勿論努力はされている事を含めて)「天才型俳優」というのは存在して、そういう俳優は自分の演技をカラオケに見せないテクニックや嗅覚を持っている。作品を自分のものの様に見せてしまえる俳優だ。
そういう天才を基本線として同じ様に凡庸な俳優に演出をつけると、凡庸な俳優はカラオケ俳優になってしまう事が多い気がする。
私も俳優をたまにさせてもらうが、凡庸を地で行く俳優なので、いつもカラオケになってしまう。
その自覚はあるのでなるべく俳優はしないようにしている。
(カラオケ演技から抜け出そうとすると長ゼリフが脳裏の彼方へ消えてしまうし)

俳優側も自衛のために、自分を知り、演出の言うことを100%信じるべきではない。
自分が歌うのだから慎重にマイクを握るべきだ。
そして演出が俳優の為を思うなら、俳優にカラオケボックスを用意するのは辞めるべきだと思う。
この企画を通じて関西から少しでもカラオケ演劇が減る事を願うばかりである。
少なくとも参加していただいた俳優にはそこから抜け出してもらえると信じている。本人次第だけど。

私が演出するときもなるべく気をつけているつもりなのだが、2日目のマチネあたりで昨日まで素晴らしい演技をしていた俳優が、突然カラオケ俳優と化す瞬間がある。
これは俳優に非が在るのではなく、稽古手法が間違っている恐れがある。
稽古の反復方法が恐らく不味かったのか?演出としての私は反省しながらも本番を終えソワレに備える俳優に「ダメ出し」を伝えにいく。
しかし楽屋に入ると俳優は「上手く行ったでしょ!褒めて!」と言わんばかりの気持ち良さそうな笑顔で私を迎え入れる。今までで一番良かったでしょ、と言いのけてしまう事もある。
まさかのダメ出しに俳優は面を食らっていたりする。
こういう時、私は俳優自身が俳優を考える場所が必要なのではないかと強く考えさせられる。
このあたりはブレヒト先生あたりの論法に基づいて検証してみる必要はあるのだが、長くなるのでやめておく。というか既に長い。
一人芝居の台本がまだできていないので、今日はこのへんにしておく。

自身の演出を棚に上げてこの企画をしていることは厚顔無恥も甚だしい。百も承知である。
だが頼まれてるまで待つのではなく、いまやり始めるべき企画だと思ったのです。
是非最初の一歩を一緒に体験していただきたい次第です。

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