都会の身体を現在のテントが受け入れるか否か

最初に断っておきますが、作品の批評をしたくてこの文を書き始めるわけではないです。
あくまで私が思う大阪のテント芝居の一つの終焉の一端を観た感想だけです。あしからず。

浪速グランドロマン『月下美人』のゲネプロを観劇させてもらいました。
浪速グランドロマンには尼崎ロマンポルノ時代から機材をお借りしたり幕をお借りしたりと大変お世話になっている団体ですが
銀色テントでの公演は何故かスケジュールの関係で全く観れずにきた。仕込みもお手伝いしたことあるのに。
今回一旦の幕引きを宣言されての公演で、これは是が非でも観なければと割りと早めに予約したのだが
急なスケジュール変更で泣く泣くゲネプロの観劇となった次第です。

こうしてブログに書き記す意味は、表題の「都会の身体を現在のテントが受け入れるか否か」にあります。
先月利賀村でSCOTの演劇祭を観たこともあるし、俳優設計で都会の身体にフォーカスを絞った事もあり、今回大阪という比較的大きい都市で毎年この季節に屹立していた銀色テントが大阪という都市に住む俳優の身体をどう受け入れてきたか、を観たかったというのが本音だったり。
私ははじめ、こうもだらしない身体をテントで晒す意味が全くわからなかった。
だらしない、というのは出演されている俳優を刺すのではなく、現在大阪で労働しながら演劇活動をする身体全てを指しています。
この舞台に誰が立っても、ここに昔ながらのアングラを体現できる俳優はもういないのだ。
状況劇場や天井桟敷も、それを観た観客も、既にそれは過去でしかない。
『月下美人』で提示されるテーマとも重なる。

この作品を何故テントで上演するのか、という意味は私には見いだせなかった。
もちろん水が出たり火が出たりと、テントで無ければ難しい演出があるにはあるが、その演出は都会の身体に対して余りに無力、というか、都会の身体に添える程度のものなのだ。
ただ、それが嫌か、というとそういう事ではない。
私はとても面白く観ました。2時間半、飽きる事は無かったです。
都会の身体に、野外に建てられたテントの中でも、やはり都会のシステムが組み敷く「安全性」は例に漏れず異常なまでに組み敷かれ、その中の俳優もその空間を越えるような、ある種神がかった演技があったわけでもない、だからと言ってつまらないわけではない。
都会の身体は身体をなるべく必要としない様にできている、という事が皮肉にもテント公演で一番露見させられてしまうのだ。
だからこそ、今見ておくべき身体であると断言できます。
浪速グランドロマンがテント公演を定期的に行えないこと、そして劇団犯罪友の会も野外公演を行うのは難しいらしいとも聞く。
維新派、という存在をここで語るべきかもしれないのですが、ここでは少し割愛。

現在グランフロント大阪が立っている大阪都市化の象徴のような場所で、数十年前にはクレーンで吊るされた船が火を吹きながら俳優を乗せて飛んでいた。

先日劇団犯罪友の会の武田一度さんにその際のお話を伺った。
次から次へと飛び出すアングラ談義はとても楽しいものだったが、現在の私がそれを出来るかというと、習ってマネをすることすら出来ないというのが正直な感想だった。
きっと現在の身体にその演劇行為自体が耐えられないのかもしれない。
武田さんも野外公演絶頂期にウイングでの公演に舵を切る采配をされたと言われていたが、必然的に野外に耐えられる身体が現代には有り得ないという判断だったのではないかと私は勝手に夢想。

野外公演の魅力は、作家の夢想がどんなに突飛であっても、花火があがり、水が吹き出し、借景が目の前に現れることで全てが集約されるという壮大なケレン味の世界を体感できることだ。
『月下美人』も例に漏れずその全てが詰まった公演だ。
しかしそれは時代が残した「アングラ」のミニチュアの様にも見える。
それは物足りなさではなく、現在の身体を難波宮に屹立したテントが開いた瞬間、手作りの月下美人が現れたとき、このテントの限界と、現在の身体をしっかりと観ることができる、継続したものにしか魅せる事ができない世界を私はとにかく堪能したのです。

きっと大阪の劇団が野外で現代演劇を上演できる環境も減っていくし、定期的に野外公演をする団体が姿を消すということは、そのノウハウも緩やかに奪っていくことを意味する。
それを維持する必要性はもしかすると無いのかもしれないが、あっさり手放すには余りに切ない幕切れと言わざるを得ない。

大阪の演劇の今を如実に露見した、私にとって大事な作品となりました。
私はこの作品は色々な方に観ていただきたいと、強く願います。
観た、という事は、次を考える一手になる重要な公演だという確信があります。
出演されている俳優も、演出も、スタッフも、室内演劇に舵をきるしかない、小劇場やアトリエ公演やカフェ公演には出来ないものがここにあるのだ、と抗っているのだ。
その身体は、悲しいから、美しくて、儚いのだ。

俳優設計に参加してくれていたプラズマみかんの中嶋ちゃんは生き生きしていた。
自分の狭い狭いと感じている世界がここでは広く動いても赦される様に。
元劇団員の平井も、なんか生き生きしていた。
平井が気に入らない演技をすると、勝手に舌打ちする尼崎ロマンポルノ演出身体を改めて感じたり。

今SEALsを代表として(されて)現代の身体が国会の前に立つ事に意味がある、という意志のもとに、憲法の違憲解釈の不当性を身体で訴えている。
その頃大阪で、身体を主体にした表現がひとつ幕を下ろそうとしている。
この意味は、大きいのか小さいのか分かりませんが、私の中で身体の意味が改めて問い直される一夜の観劇体験であったのです。

改めて言いますが、作品の内容は全く語っていません。
私は、観に来た途中で、虫除けスプレーを何故してこなかったのか、と後悔した。
何が起こるかわからない。
野外の醍醐味なのにね。
それも含めて、私は体感出来ない演劇が増えていくのではないか、という危惧がつのってしまったのです。
戦争を体感したくないと叫ぶ身体と、演劇を体験したいと叫ぶ身体を考えて、今日は寝て、明日は次回公演の映像テストです。

広告